Jul 11, 2009

愚痴の驚異的な会計事務所

友人が会計事務所に入社したのはいいが、会うたびに愚痴を聞くことになるので、非常にたまらない。しろ、その人が人のことなど話は尽きない。それでも、その会計事務所を選んだのは自分だからと癒してみても、それでも止まらない。仕方がないので话半分聞いておくことにした。いつかは愚痴も終わるだろう。
賃貸事務所の経営するよりも購入した方が良いというのは誰が考えても安くなると思う。ただし、以前、そこの場所に建てるのがいいかわからない場合は、リースが良いのではないかと思う。賃貸オフィスで実際に購入して事務所を置いても良い所ではなかった終わっていないからだ。
 司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」と松山市のまちづくりとの関わりなどをテーマにしたシンポジウム「『坂の上の雲』のまちづくりに見る伊予松山の魅力」(主催・産経新聞社、後援・愛媛県、松山市など)が5日、千代田区平河町の都市センターホテルで開かれた。

 シンポジウムでは、中村時広・愛媛県知事が松山市長だったころ、小説をモチーフにしたまちづくり構想を着想したエピソードを披露。「あの当時の人たちの生き方がいまの松山、愛媛県の(産業など)礎を築いている」と指摘した。

 また、まちづくり構想の中核施設「坂の上の雲ミュージアム」の松原正毅館長は、小説の主人公の一人、陸軍軍人の秋山好古について「陸軍退官後に中学校長になったのは近代国家を作るのに教育が一番大切と考えたから」と説明するなど登場人物の逸話を伝えた。

 小説を実写化したドラマで海軍軍人、八代六郎を演じた片岡鶴太郎さんは「八代は私心なく、公を重んじる一方で、チャーミングな面もある。そこを考えた」と話したうえ、収録の舞台裏などを共演者のものまねを交えて語り、会場の笑いを誘っていた。

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【from Editor】

 詩人の新川(しんかわ)和江さん(81)にお会いした。新川さんには、本紙「朝の詩(うた)」の選者を、昭和57年8月から、ひとりで務めていただいている。大ベストセラー詩集「くじけないで」の柴田トヨさん(99)の作品を「朝の詩」で紹介し、トヨさんの“詩人デビュー”のきっかけを作った方でもある。

 トヨさん効果か。「詩を書いてみたい」と、私自身がたずねられる機会が増えたことを話すと、「俳句や短歌のような約束事はない。詩を書くって大それたことじゃないの」。アドバイスは続く。

 プロもアマも関係なく、大切な心構えがあるという。「草木や小鳥と同じように人間も、光や水に生かされていることを忘れてはいけません。人間が優れているという傲慢な考えでは、花や鳥は何も教えてくれません」。それって難しい話ですが…。「いえいえ、自分が優れていると思っている人に詩は書けないということ。周りと同じ目線にたてませんから。トヨさんの詩が共感を呼んでいるのは、おしつけがましいところがないところよ」

 でも、「朝の詩」に応募するなんて…と二の足を踏む人もいるかもしれない。「人をひきつける詩は上手、下手ではないの。『あら、こういう見方もあるのね』と驚きを与えてくれるような、常識にとらわれない方が面白い。社会生活で常識は大切だけど、詩は常識だけで書けません。人間的魅力を感じられるものがいいの」

 〈定年後、愛読しています。若いときは他紙でしたが、今は産経ファン。頑張ってください〉

 年末に千葉県の男性読者から、激励のはがきを文化部生活班あてにいただいたが、定年後、本紙の愛読者になった、との声を耳にする機会が増えた。「これまでの人生を振り返って、つぶやきを書き留めるだけでも詩になります。人生経験が豊富な人ほど豊かな詩が書けます。定年後の第二の人生に詩を書くのは良いこと」

 オーストリアの詩人、リルケ(1875〜1926年)も「マルテの手記」でつづっている。

 〈人は70年あるいは80年かかって、(中略)おそらくわずか10行の立派な詩がかけるだろう〉

 新川さんは、新たな応募者が増えることを楽しみにしている。

 「どんなにたどたどしくてもいい。けなげに生きてきたことがわかる、あなたからの作品を待っています。『詩の扉』をたたいてみましょう」(文化部長 斎藤浩)

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【江戸前史 ぶらり関東記】(9)国王神社

 関東地方の豪族、平将門(たいらの・まさかど)(生年不詳〜940年)が反乱を起こしたのは平安時代の中期。国衙(こくが)(都道府県庁)を次々に陥落させて関東一円に勢力圏を広げ、「新皇」を名乗った。栄華は長くは続かず、ほんの数カ月後には討伐されたが、その名は長く歴史にとどまることになる。

 なにより、祟(たた)り神(がみ)として有名。東京都千代田区大手町に「首塚」がある。討ち死にした将門の首は京都に送られたが、獄門首が故郷に向かって飛び、途中で力尽きて落ちた。それを弔った場所が「首塚」で、不敬を働くと悪いことが起きる、と信じられている。

 将門の本拠地だった茨城県坂東市には「胴塚」も残っている。延命院という古寺の境内にカヤの巨木があって、その根元に首のない将門が眠っている、という。大手町の首塚から約50キロ。もう少しでたどり着いたのに…ただし、いまもバラバラってのが物語性を高めてもいるんだけど。

 坂東市の祟り話もユニークだ。将門が愛した桔梗(ききょう)姫が敵に内通したという言い伝えから、地元では「誰も桔梗を植えない」そうな。真偽はともかく、死後千年過ぎてなお、人々の生活に影響を与えているのはたいしたもの。

 「ここが平将門の終焉(しゅうえん)の地」。そう言って案内された国王(こくおう)神社(茨城県坂東市)は、将門の娘が霊を弔うために刻んだ木像を安置する社だ。おおげさな名前だけど屋根は茅葺(かやぶ)きで壮麗さは皆無。質素で穏やかな雰囲気は、当地の印象にも通じる。沼沢地が広がる関東平野の外れを拠点にした将門はなぜ、関東全域を統(す)べる力を持てたのか。

 レクチャーをお願いした地元の郷土史家、山崎正巳さん(81)は「製鉄と馬牧(うままき)(馬の生産拠点)の存在が大きい」と即答してくれた。霞ケ浦で採れる砂鉄を使った製鉄炉があり、武具を製造できた。馬の生産も盛んだった。平安中期の「延喜式」に記された官営の馬牧の2つを将門が管理していたという説もある。

 「当時、馬を生産していたというのは、戦車を製造するのと同じようなものですからね」

 さらにいえば、東国の人々は実戦経験も豊富だった。中央政権に帰属しない東北地方の勢力との争いが続いていて、東国は北方防衛の兵站(へいたん)基地となっていた。将門の父親が鎮守府将軍だったというのが象徴的。兵力も機動力も経験値も十分。天皇家に連なる血筋の良さも役立ったはずだ。

 「将門は最初から関東制覇など考えていたわけではない。身内でもめているうちに、いつのまにか大きな存在になってしまったんでしょうね」

 ついには「新皇」と名乗り、関東8カ国の国司を勝手に任命したが、「天皇に成りかわろうという発想ではない。関東を治めますから任せてもらいたいという考えだったと思います」。

 将門を倒したのは一本の矢だが、追いつめたのは「朝敵」という言葉だった。一時は5千人とも8千人ともいわれる軍事動員力を誇ったが、謀反人として追討令が出されると人心は離れる。最後の戦では400人しか集められなかった。

 行き当たりばったりで、ビジョンに欠ける。批評するのはたやすい。でも傑出した存在であったことも間違いない。飛鳥時代からこっち、政治も文化も西から東の一方通行。東国の人々は約300年近く中央政権に従属してきたが、将門は流れに逆らってみせた。革命家にはなれなかったが、「あずまびと」の代弁者ではあった。

 「武家社会のさきがけが平将門。完成させたのが鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)でしょう」

 「公家VS武家」という概念も、このあたりから強く意識され始める。将門は、その身をもって東国に覚醒をもたらしたといえるかもしれない。(篠原知存)

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